プハア。ねむい。

 今日から日記をつけることにする。
特に意味もない。特に感慨といったヤツもない。
ただの記録。空に消えていくような淡い言葉、記号。
その、小さな群れ。

 ロッジに行ってスノボをしている間に(とはいっても結局、途中の電車の中で、なんだけど)読んだ真木悠介の「気流の鳴る音」の断片が頭から離れない。カスタネダドン・ファンの言葉の奥行き・・・というか、深さへの理解というのがまだ不十分なんだと思う。理解するのか・・・感じるのか?(まあ、ここらへんは例の「Feel.Don,t think」ってやつなんだろうけど)言葉以下の現象と言葉以上の現象にはさまれて構築される意識ってものしか、存在を認識する手段がないことは悲しいことなのかもしれないけど、それは否定すべきでも肯定すべきでもないんだろうなあ、って、思う。重要なのは言葉で可能なことの拡大と縮小ではなくて、言葉と言葉以外のものとのより深い交流なんじゃないかな?って。思って、いや、まだまだ・・・・・

   よくわかんない。
 
              

 友人の一人が学校をやめることになった。彼は、まあ、世間体のいい大学ってのに入って、それなりのコトをしてれば適当な会社にはいって適当な人生ってのを保障されるんだろうけど、スーパーカーのミキちゃんが歌うように、適当で安心ってのは退屈なんだろうな。それが耐えられないんだろうな。アタシたちは壁を作ることなしには生きていけない。でも、ときに壁を厚く作りすぎて自分を閉じ込めてしまう。自分自身を牢獄につないで満足する傾向。必要なのは壁ではなくてたてなのにね。そのバランスをとることの難しさ。壊すことと守ることと維持することの。判断と、実行の。

 まあ、今日はこのへんで・・・

って思ったんだけど、やっぱもうちょっと書こう。
毎日本一冊か曲を一曲批評しようかな・・・

福満しげゆき「まだ旅立ってもないのに」青林工芸社

 久しぶりのガロ系HITだった!まさか現代でもこんな表現が可能だったなんて・・・ガロ系っていうとどうしてもつげ義春林静一のイメージがあってそれは戦後から68年を全盛とする全共闘世代の後退く72年まで・・・・藤原新也が「日本漂流」で分析したように、消費社会という近代化の波と近代以前のシステムの移り変わりが風景の消滅とともにさまざまな事件としてうごめいていた、あの「時代」特有の空気感こそがガロ系の要素だったと思う。でも、それはガロがねこぢるによって一時期もちなおしたように近代化、高度消費化の果てに現れたクリーンな世界においてその、対極として必要とされ生き残り続けてきたんだなあ、と。(まあ、早い話が中学生のころコンビにで立ち読みしてた昔のGONやらBUBUKAやらデータハウスから出てた危ない一号とかだったりもするんだけど。)一話目の「子供が終わる、子供が泣く」は大江健三郎の初期作品、「めむしりこうち」を彷彿とさせる世界観を現代において再現した感じ。特に性表現において。大江は初期の3部作もののエッセイで自分の性表現におけるスタンスを三島や他の作家のエロティシズムに対比して書いてるけど、(政治と性こそが彼の主題だった)その主題が政治なき今(フリーターという無産者としてしかありえない若者!の姿)をどうやって変奏しているのか?という問いによってこの福満しげゆきの作品を読みこんでいくと面白いんじゃないかなーって思う。ちなみに個人的には「僕たちは残尿管を感じるためだけに生まれてきたんじゃない」が一番好きカナ。映画化したらけっこういけそう。