物事。

物とコト。出来事。出て来るコト。
そしてそれらの絡まりあう軌跡。
点ではなく、線として。ただ単純な線ではなく、
ひものように柔軟な構造をもった
線として、3次元的に絡まりあう。複雑な。


1次元、2次元、3次元という次元数のモデル化の質的な差異は
それらの抽象的な空間性の、現実空間からの、複雑性の減衰の密度を
示しているのであって、それは捨てられた外情報の帯域を反証的に
証明する。


現実。


例えば。


私は今自分の指を画面に押し当て、ゆっくりと押し付け、文字を書き、
記していく。そのときアタシは文字情報の位置情報を数値的に、数式として
指示するのでもなく、むしろ、文字の形象をイメージしてそれをなぞるように
反復し、それを指に置き換える。でも、そんなことは意識してはいない。今、
こうやってPCのキーボードに文字を入力している具体的な日本語の翻訳として
のローマ字のイメージを脳裏に反省的に描き、頭の中に浮き上がり、
流れ去っていく思考の、記号の流れを即自的に入力しているのであって、
わざわざ反省的にコピー作業をしているわけではない。



 グラフの空白は空白ではなく、ありうべき数値のとりうる最大限の可能性であり、
全て可能な結果はグラフの空間を物理的に全て埋め尽くすはずである。
しかし、論理的には、物理的限界としてグラフ紙やグラフの映し出される
映像の粒子以下の物理レベルに線は存在し得ない。存在するのは粒子の粗さ
であり、その複雑な凹凸である。つまり、直線やグラフは概念的に存在
しえるであろうものであって、現実には存在しえない。



数値的な情報規定の中に現れる虚数的な現実は、チューリングマシンに見られる
ような永遠に計算可能な、別な意味での、自然数のあまりにもの抽象性、空間性によって捨象された現実=リアルな複雑さというシステムの大きさと豊かさを証明すると同時に、自然数や言語という、空間性、関係性、構造によってしか思考可能な領域を持たない、人の意識システムの矮小さと、ゲーデルの証明のように、その、単一な論理体系そのものの無矛盾がありえないことを証明する。



  と。



   ちょっと疲れたなあ。




               眠たい。






明日はこの下のグラフ!(今、役に立たないことを証明したんだけどなあ。まあ、大局的にはプラグマティックに有効性を持つからいいのか。)でいろいろ書いてみよう。

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