オール・アバウト・マイ・アイデンティファイド・アイデンティティ

自分。自らを分けるモノ。環境から分化する身体と、その身体から分化する意識。

70年代のドイツで社会学者と神学者の間で全体性をめぐる論争が起こったことがある。社会学者は神学者を「社会」によって規定された存在だ。(そして神学者にとっての「世界」の現れは「社会」次第だ)と説く。神学者社会学者を「世界」によって規定された存在だ(そして神学者は「世界」を論じる)と見る。果たしてどちらがより全体的か?だが退いて見ると、そうしたどうでもいいことを社会学者と神学者が争う「社会」があり、そんな「社会」が「世界」の中に存在している。
             (宮台真司 「絶望 断念 福音 映画」P93〜 )
前回、神学者が(社会学者は「世界」の中にいる(が、神学者は「世界」自体を論じる)と言うのに対し、社会学者が(神学者は「社会」の中にいる(から「世界」の現れは「社会」次第と言うと述べた。その意味では、映画「ザ・ビーチ」は大いに社会学的だ。さて、「世界」の表れが「社会」次第であることに映画は批判的か?・・・・(ニューエイジトラベラーの)コミューン成員が聞く「世界」の調べがじつは「社会」の調べであるのと同様、近代主義たるオリエンタリズムの変種にすぎないからだ。
             (宮台真司 「絶望 断念 福音 映画」P103〜 )

したがって意識ははじめからすでに社会的な産物であり、そして一般の人間が存在する限りそうであるほかはない。
自然(超越的な全体性)に対する人間の限られた関係(コミュニケーション可能な、世界から限定された、社会的な関係性、内在への自閉)が彼ら相互の限られた関係を制約し、そして彼ら相互の限られた関係(内部で行われる、意識という反省的なシステムの再生産の自閉的な、しかし、生存のためには止むを得ない、維持すべき内在の反復構造)が自然に対する彼らの限られた関係(超越的な体験の内容)を制約する。
        (マルクス・エンゲルス ドイツイデオロギー フォイエルバッハより引用、ただし、括弧内はアタシの注釈)

「世界」はそれ自体において複雑なのではない。世界を複雑性の縮減によって処理しようとする意識システムの視座から見たときのみ、世界は複雑なのである。
          (ニコラス・ルーマン  出典忘れたーーーー誰かおせーて)

つまり、世界の未規定性、複雑性、無限性は、それを観察する、矮小でバカで痛ましいほどちっぽけな、有限な(まさしく考える弱き葦!!という)人間主体から見れば無限で複雑に見えるが、それは人間独特の視点、見方がその世界の複雑さという「見た結果」を生産しているのであって、もっとマクロな、ミクロな世界の複雑さの差異をパーフェクトに観察可能な視点(まさに神の視点!!)から世界を見てみれば、世界はちっぽけだし、わかりきった単純な現象にすぎないということになる。(もちろん、こんな視点は空想の産物でもあるのだけれど。ちなみにニュートンはこの神の視点を導入している)