暴走するニューエイジ

 アタシなりのサブカルチャーというジャンルの規定方法はいたってシンプルで、とりあえず「今、ここではないどこかへの想いを満たすためのメディア」だと思う。それは近代というシステムが有効性を失い、資本と商品の流動性の中に個人の選択肢が包摂されていく過程にあらわれてきた、ゆるやかな超越性なのだ。超越性という言葉を定義するのはちょっとややこしい。とりあえず「すっごいぶっ飛んでる」から言葉で表現しようがないモノ。不思議という言葉が示すように、思ったり、議論することができないモノ。アタシ達の言葉、常識、文化、いかなるものも捉えられないもの。神様や宇宙人に近いモノ。それが超越性なんだと思う。(例えば量子力学でいうブラックホールのシュバルツシルト半径=事象の地平線の内部や、宇宙の始まりの始まりでもあるほんの小さな一点もそうだ)

 世界はとてつもなく広い。そして、深い。アタシ達の言葉や身体はその世界のほんの、ほんとに、ものすごーく小さな一点だ。カントが1700年代に「物自体」という言葉を使って証明したのは「こんなちっぽけな人間の身体にと、さらにちっぽけな、有限の言葉なんかで可能なことはひどく限定されていて、それをゆっくりと克服していくことはできるけど、その有限性自体は絶対に克服できない」というものだった。それでも、人間は世界を志向する。近代史は世界を全て可能にできる(と思い込んだ)人間のすばらしさ(という過ちの愚かしさ)の堆積だ。啓蒙や、正しいと思った科学的な選択を行った結果の大虐殺。やーれ、やれである。

そしてこの啓蒙の逆転、弁証法的転回は今だって終わってはいない。

ナチスも、旧ソ連も、この国の帝国主義も、戦後共産党も、反代々木系諸派も、連合赤軍も、狼も、オウムも、みんな彼らなりの「正しい」行いを行った結果が大虐殺だったり毒ガス事件だったのだ。この国の戦後のメインカルチャーからサブカルチャーへの動きは戦中、戦後の共産党の地下活動に始まり、68年の細分化した政治闘争の過激化と衰退から・・・・・(続きは後で)

そしてここ最近の窪塚洋介である。

ハア。

何やってるんだ!お前はー バカバカバカ、と、いいたい。

例の事件の起こる前、今年のアースデイで窪塚クンは元YMO坂本龍一教授の作ったバックトラックに自作のラップを乗せて歌ってくれたのだけど・・・・・それが終わった後のオマケに歌ったサザンの「いとしのエリー」の替え歌が、もう、だめだめだったのだ。ハア。「エリー、マイラブ、ソースイート」という部分を「エブリ、マリワナ、ソースイート」と歌っておまけにマイクでブハーっと煙を吐き出す真似までしてたのだ。わざとらしく。これには参った。イヤー もう、 「マジで勘弁してよ」、なのだ。そしておまけのあの、自殺未遂事件。アーアである。これじゃ「覚醒剤はコントロールして使えばマジ安全、大丈夫」と叫びつづけた鶴見済とまるっきり一緒じゃん!「こんなぶっ飛び行動やら自殺未遂するなんて危ない薬(大麻)をやってるとしか思えない!しかもそれを解放しようなんて・・・・絶対おかしい!」なーんて、小市民んさんは大納得してしまう。本当にやめてほしい。これじゃ悪循環だ。てか、コイツは労働厚生省の回し者じゃないのか?実は。影でこっそり手をつないでいるのでは?そう思ってしまうぐらいベタなダメっぷりだ。本当に労働厚生省のお役人は窪塚くんに感謝してると思う。わざわざ「ダメ、ゼッタイ」なーんてポスターをいっぱい張らなくても、「大麻サイコー」って言ってるやつがどんどん壊れていってるんだもん。悪宣伝の宣伝費用うくし、やってるヤツも壊れていくから一挙両得ー みたいな。

だいたいアンタは映画やらTVっていう資本主義の害毒のど真ん中のおかげで生きてるんだし、それで飯食って人並み以上の生活してるんだからさあ、ワザワザ地球環境がどうのこうのなんてバカなこといわないでおとなしく役者やってればいいのに。アタシは環境にやさしい、とか、この星のためだとかぐだぐだぬかして資本主義のいい肥やしになってるバカが大嫌いだ。アマゾンに行ってガンガン酔っ払ってゴミを捨てまくってた西原理恵子のほうがよっぽどマシだ。しょうもない善意なんかより明確な悪意の方がずっとすっきりしてる。だってそれこそがどうしようもないこの社会とこの人類っていう生き物の本質なんだもん。